【中国渡航記】中国人も日本人もない。素敵な人は素敵。 (投稿ID : wk883)

更新2024年6月16日 07:37
作成2024年4月11日 10:16
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【中国渡航記】中国人も日本人もない。素敵な人は素敵。 - 名古屋市

有名な哲学者フョードル・ドストエフスキーが言った「特定の個人を愛せ、抽象的な概念を愛すな」

(Fyodor Dostoevsky)「Love specific individuals, not abstract concepts」



https://ameblo.jp/momiccotaro/entry-12135045487.html 【中国渡航記】

https://ameblo.jp/momiccotaro/entry-12770464391.html 【中国人の正体其の二】




【中国渡航記】中国人も日本人もない。素敵な人は素敵。



 4,000年とも5,000年とも言われる中国の歴史だが、実際の中華人民共和国🇨🇳は、中華民国🇹🇼が台湾に去って行った1949年に建国され、まだ数十年の歴史に過ぎない。

 日本人の中国に対する嫌悪は高まるばかりで、中国と中国人を同一視さえしている。

しかし実際には、中国には14億+無国籍の人をあわせて、15億人近くの人が居ると言われ、その他にも、ご存知のように世界各国でコミュニティを作るほど華僑や移住者も多い。

50種以上の民族が、100以上の言語を使って一つの国家として成り立っている以上、「中国人」と一括りにできるはずも無いし、

多くの日本人が足元にも及ばない富裕層、知識人、温厚で他人に優しい人格者の数を数えるだけで、我が日本国の人口を遥かに凌ぐだろう。

 だがしかし、それは中国人の日本人に対する嫌悪も同様で、私が中国に移住していた短い期間ですら、日本でも連日のニュースになった反日運動が各地で起こり、私のいた西安では、日系企業の破壊や焼き討ちが度々発生した。

 実は、その西安での暴動の端緒となったのは、私の居た西北大学に岐阜県から来た日本人留学生の軽はずみな発言だった。

初めのうちは軽い口論程度であったのだが、フラストレーションが鬱積した一部の中国人の有事の連帯感は、日本人のそれとは比較にならない。

結局、もの凄い勢いで燃え上がった怒りの炎は、周りの学生や市民に延焼して行き、留学生用の学生寮や食堂が破壊され、複数の学生が頭部から血を浴びたような大怪我をして救護されることになった。


 深夜になって、現地国の機動隊が突入し、暴動を起こしていた中国人学生や、暴動に参加した市民を機動隊員が警棒で滅多打ちにする中、世界各地から集まった留学生や一部の旅行客が裏口から抜け出し、チャーターしたマイクロバスによって山奥に避難することになった。

避難先の山奥には、日本の大使館や領事館の職員が訪れ、日本国内の家族との安否確認に奔走してくれた。

そこから長い間、山奥暮らしが続き、授業は完全に停止した。

暴動の際、中国人の教師たちは全員で手をつなぎ、学生寮の破壊と暴漢の侵入を阻止しようとしてくれた。

5,000人以上に膨らんだ校内の暴動参加者たちは、大学の敷地に入りきれず街に溢れ、怒りのシュプレキコールが、地を揺らし、建物のすべてのガラスがビリビリと音を立てた。(最終的には1万人規模だったと聞く)

一階からガラスの割れる音が鳴り響き、凄まじい数の暴漢が留学生寮に雪崩れ込んで来るのが分かった。

私は急いで女学生とクラスメイトを優先に内線電話をして、ベッドをドアの手前に置いて侵入を阻止するように促した。

私のもとにも、日頃日本語の指導をしていた中国人生徒から安否の電話が何度も入った。

何時間も続く暴動のなか、引き続き、皆で手を繋ぎ円陣を組み、侵入阻止を試みる教師のうちの妊婦女性は、その後に精神的ショックで流産した。

数ヶ月後に教室で再会した時、必死に作る笑顔が痛々しかった。



 中国人の多くは、良くも悪くも熱くてパワフルだ。何しろ挨拶だって、「熱烈歓迎!」である。
(確か中国語での「挨拶」は不快な意味です)


純心な人も多いので、国家のプロパガンダには、実に素直に従ってしまう。

何しろ生まれた時から、何百もあるテレビチャンネルのどこかでは、日々反日ドラマなどの映像が流れていて、授業でも日本軍の卑劣な部分ばかり教えこまれるのだから、自分の考えを確立し続けるのは非常に難しい。

それを見極められる多くの知識人はカナダ🇨🇦など各国に、永遠に移住してしまう。

私個人は、多くの中国人に大変お世話になり、また多くを学んだ。

この強大な国家は、この先どうなって行くのか。悲喜交々見守っている。

オツカレ! 最高労働者 小太郎
2022/08/07




https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F%E5%AF%B8%E5%8A%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6



http://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/WallStreet/9896/j_mag.html



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【中国渡航記】

(これは、私がまだ闇マッサージをなりわいにする前のお話です…)


 ニュースなどでは、連日のように日中間の問題が取り上げられる昨今です。
 ずっと私が心の中で大切にしてきた思い出をお話しします。


 私は30歳を過ぎた頃、中国語と按摩の技術を習得する為に、中国は西安に渡りました。


中国語で挨拶も喋れない状態で、フェリーと列車を使い四日間かけて到着した頃には、 緊張の連続で食事もとれず体重は50キロを切っていました。   

 西安に向かう道中では、向かいの座席のファミリー、列車の車掌、学生等に、さっぱり解らぬ中国語や英語で気遣いを受け、押し潰されそうな緊張の中でも、暖かい思い出が沢山残りました。

 列車を降りて、100キロをゆうに超える荷物を引き摺りながらオロオロする私を見付けるや、家族総出で私に手を差しのべ、何とか自家用車のトランクに載せようと必死に手伝ってくれる人もいました。
(結局乗り切らず、ワゴンタクシーの手配をし、運転手に行先まで伝えてくれた)




 その後、留学生活を終えて帰国する際には、節約の甲斐もあり少しお金に余裕があった為、いくらかの、重量がある荷物は郵送で送ったものの、それでもタイヤがきしむ大型キャリーバッグ二つに、前後ろ二つのリュック、同じく二つのウエストポーチ、更に本がぎっしり入った段ボール箱と…
背骨から軋む音がする程の荷物を抱えての帰国でした。

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 実は、日本から旅立つ準備が全て整い、アパートの解約をした段階で、
当時小学生の娘が交通事故で一時的に命を失い、医師の電気ショックや心臓マッサージを用いる懸命な治療のおかげで蘇生したと言う事情で、
予算が想定外に少なくなり、2・3年間は現地で手配しなくて済むように、色々な家財道具を持参したのです。

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 帰国時、幸い駅のホーム迄はクラスメイトや中国の友人等が運搬を手伝ってくれたのですが、それでも階段を昇る際には一つの旅行カバンを2人がかりで持ち上げないとならない程の重量でした。

 季節は8月終わりの、残暑厳しい中です。

 来た時と同じく、再び周りの中国人に暖かい言葉をかけられながら、西安から上海駅に向かいました。

 私は、荷物があまりにも多く一般の座席に座ることが不可能で、ベッドの指定席をとり、そのベッドの上と下の隙間に全ての荷物を運び入れ、自分は床の隅に小さくなって座る状態でした。

私のベッドの上段には、一瞬姿を見かけただけの30歳代位の男性が居ましたが会話すら皆無でした。

 さて、列車が、確か16時間余りの時間をかけて上海に着き、周りの中国人が心配そうに横目で私を見ながら別れを告げる中、

私は(弱々しくも…)気合いを入れ、一つずつリュックを背負い、ポーチをはめ、通路幅ギリギリの、タイヤがきしみ今にも破裂しそうな大型キャリーバッグ二つを押したり引きずったりしながら運び出しかけました。


 その時、頭の上から突然、上段のベッドの男性が中国語で「大丈夫か?運べるのか?」と、この時を元々予測していたかの様に冷静に話しかけて来たのです。

 まさか、自分で選んで運んで来た重量物を前に、「運べない」とは言えるはずもありません。 その為に帰国の三ヶ月前から腹筋・背筋・腕立てで筋力増強までして来たのです。


 しかし、私の不安感漂う 「大丈夫・・・」の返事に、彼は無言で私の荷物を一緒に運び出したのです。 本当の事をいうと、心が折れそうな位に不安だったのです。 階段がある度に荷物を半分ずつ置いては往復して運ばなければならない状況に、涙がこぼれそう、胃に穴が開きそうだったのです。

基本的に見栄はりで、お人好しの多い中国人の内の一人の好意を、私は素直に受け入れました。

中国は、駅の敷地も広大です。

無事に駅の出口に着く頃には二人とも、中国の乾いた空気の中に舞う黄砂や粉塵が混ざった、泥の様な汗をかき、息はあがっていました。

 私が駅の出口で重量オーバーの罰金を請求されるや否や、(全ては聞き取れませんでしたが)

彼は「日本の友達が、こうして目の前で困っている時に、お前は何を言うんだ!」と駅員に喰ってかかるのです。 結果大幅な減額をしてもらい、私はタクシーを捕まえる為に駅の外に出ました。

 本当は、彼に謝礼金もしくはジュースの一本でもプレゼントしたかったのですが、たったジュース一本を買いにゆく、気力の余裕さえ無い状態でした。

 その場で彼に何度もお礼を言い、握手を交わし別れを告げました。

 私がタクシーを探し、必死に、この重量物をトランクやら座席やらに乗せる許可を得、いくらかの足腰の関節の休息をはかろうと座席に着いた時でした。

わずかな座席の隙間に、急に彼が顔を突っ込み「おまえは、こんな荷物をかかえて明日の船の出発まで、きっとホテルを探すことも出来ないだろう!俺もゆく!」と乗り込んで来たのです。

 聞くと、彼は私の行き先とは全く反対方向のかなり離れた自宅へ帰る途中…。

 タクシーがフェリー乗り場の付近に到着すると、炎天下のもと、私の荷物を共に抱え、かなりキツイ坂道を40分以上運び続けたのです。

そして途中にホテルを見付ける度に宿泊の交渉をし、何とか空き部屋を見つけてくれました。

彼は筋骨隆々で、私よりは遥かに体力はありましたが、運び終わった時には、手は痙攣しアチコチに擦り傷が出来、泥に泥を重ねる様な汗をかいていました。

私は分かる限りの中国語を使い、言い様の無い、言葉にならないお礼を伝えて彼に「君の好意に対して、本当に失礼かも知れないが…」と、きっと帰りのタクシー代くらいにしかならないが、私に取っては(ホテル代やフェリー代が足らなくなるかも知れない)ギリギリまでのお金を差し出しました。

しかし彼は、かなりの早口で(政治経済の専門的な言葉も交じり定かではありませんが)

「日中間では今も昔も色々ある。そして世界でもいつも私利私欲で争っている。しかし俺達の関係はそうでは無い。今おまえから金を受け取れば、俺の全ての行為は意味を持たなくなる…」 とまくし立てました。

 私はそれでも 「気持ちだから」と何度も食い下がろうとしたのですが、彼は泥の様な体のまま きびすを返し、今来た炎天下の道をひたすら歩いてゆきました。

 私が、更に大声で 「せめてホテルの部屋で水でも飲んで一息つかないか?」と言う言葉にも、ただ手をふって笑っていました。

  「おい!せめて名前だけでも!」 
「じゃあ手紙を出すから住所は!」 
「電話番号は!」  と何を聞いても 

「これは日本の友達への気持ちだから…そんな大袈裟なことじゃないんだよ!」 と繰り返し言うのでした。

 私は、その時くらい人間の暖かさを感じたことはありません。

互いに極限の喉の渇き、体力の限界を感じながらの思いやりだったのです。

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名称 【中国渡航記】中国人も日本人もない。素敵な人は素敵。
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