表紙・裏表紙に折れがあります。(写真③④) 50年以上前の発刊です。全体的にくすみがあります。(写真⑤) 『二十四の瞳』 壷井 栄:著 旺文社文庫 昭和46年 重版 縦:15cm 横:10.5cm 厚さ:1.2cm (他二編)ピアノ・極楽横丁 紙ケース付き フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 『二十四の瞳』は、1952年(昭和27年)に日本の壺井栄が発表した小説。第二次世界大戦の終結から7年後に発表された小説で、作者の壺井栄は自身が戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした数多くの苦難と悲劇を描いた。発表の2年後の1954年(昭和29年)に映画化された『二十四の瞳』を含め、これまで映画2回、テレビドラマ8回、テレビアニメ1回、計11回映像化された。 概要 「瀬戸内海べりの一寒村」を舞台に、女学校を出て赴任した女性教師とその年に小学校に入学した12人の生徒のふれあいを軸に、日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに否応なく飲み込まれていく中での教師と生徒たちの苦難や悲劇を通し、戦争の悲壮さを描いた作品である。1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで昭和の戦前期、終戦、その翌年までの18年間が描かれている。栄はかねてから、両親に育てられた12人の子供のことを、子供の側から童話として書いてみたいという構想を持っていた。それが社会情勢の悪化により無理となったため、一つの小さな村に生まれ育った12人の同い年の子供の話として書いたのが本作である。小説の舞台は、その冒頭で「瀬戸内海べりの一寒村」とされている。そして全ページを通じて、一切、舞台の具体的な地名は出てこない。しかし、小説発表の2年後の1954年(昭和29年)に映画化された際(『二十四の瞳』)、壺井栄の故郷が香川県小豆島であることから、物語の舞台を「小豆島」と設定した。これ以降の映像化作品でも同様に小豆島を舞台としたため、『二十四の瞳』と原作にはない「小豆島」の2つが結びついて広く認識されるようになった。1952年2月から11月までキリスト教の雑誌『ニュー・エイジ』に連載、同年12月に光文社が刊行。文庫本の初版は新潮社では1957年に、角川書店は1961年に刊行。ともに刊行を50年以上続けている。 あらすじ 1928年(昭和3年)、普通選挙が実施される一方で治安維持法の罰則が厳しくなった年に、「女学校の師範科」を卒業したばかりの正教員の大石久子(おなご先生)は、島の岬の分教場に赴任する。そこに入学した1年生12人(男子5人、女子7人)の児童、それぞれの個性にかがやく二十四の瞳を前に、この瞳をどうしてにごしてよいものかと感慨を持つ。若く朗らかな大石に子供たちはすぐになつき、「大石小石」から「小石先生」とあだ名を付けられ信望を集めた。しかし颯爽と自転車に乗り洋服姿で登校するおなご先生は「ハイカラ」であることを理由に、保守的な村の大人たちから敬遠され、些細な誤解から面罵され、思わず涙することもあった。しかしいつでも子供たちはおなご先生の味方であり、支えであった。そんな折、大石は年度途中で子供たちの作った落とし穴に落ちてアキレス腱を断裂する。分教場への通勤が不可能になってしまう。大石が不在の中、「おなご先生」を一途に慕う子供たちの姿を目の当たりにした村の大人たちの態度も軟化する。大石が子供たちにとってかけがえのない存在であることを理解したのだった。しかし、松葉杖を離すことはできるようになったものの、自転車に乗ることができないため分教場に通えない大石は本校へ転任することとなり、村の皆に見送られ、再会を約束して分教場を去った。 1932年(昭和7年)、5年生になった子供たちは本校に通うようになり、新婚の大石と再会する。しかし昭和恐慌や東北飢饉、満洲事変・第一次上海事変と続く戦争といった暗い世相は、大石を初めつつましく暮らす生徒たちのそれぞれの暮らしに、不幸の影を落とし始める。 1934年(昭和9年)春、アカのレッテル貼りに世間が流れて自由な発言がしづらくなり、忠君愛国が重んじられて行く学校に大石は憂いを持つようになる。そして、船乗りの夫の子を身ごもり、防空演習が多くなったこともあって、教え子たちの卒業とともに3月で教職を辞する。12人の生徒たちはそれぞれの運命を歩み、女子は生活苦に追われ、男子は好戦的な空気の中で英雄になる夢を見て、兵隊志願者が多くなっており、行く末を案じる。 1941年(昭和16年)の春、三児の母となった大石は、徴兵検査が行われているK町のバス停で、検査のため来ている教え子の男子たちに出会う。もはやお国のために死ぬことしか言えなくなっている中、甲種合格してしまい海軍に配置された教え子と別れる時、「名誉の戦死など、しなさんな。生きて戻ってくるのよ。」と、声を潜めて伝える大石だった。その年12月に太平洋戦争が始まり、夫は南の海へ出兵している。 1946年(昭和21年)、夫を海戦で、相次いで母親も末娘も亡くした大石は、ふたたび代用教員として教壇に復帰する。幼い児童たちの中にはかつての12人の児童たちの近親者もいる。最初の12人と子供たちの姿をだぶらせ、涙ぐむ大石は、その昔「小石先生」とあだ名をつけられたように「泣きミソ先生」と呼ばれることとなる。 しばらくたち、教師の道をえらび、母校に勤務しているかつての教え子・早苗の呼びかけで、12人のうち消息のわかるミサ子、小ツル、マスノ、磯吉、松江、吉次の6人は大石と早苗と会合をもつ。貧しさから波乱の人生を余儀なくされた松江、家が没落し消息を絶った富士子、誰にも看取られることなく病死したコトエ、遠い海の向こうで戦死し2度と帰ってこない仁太・正・竹一、戦場で負傷し失明した磯吉、一人一人に思いを馳せながら兵隊塚の墓参をした後、会合では、時代の傷を背負って大人になった教え子は、大石を囲んで小学1年生のあの日皆で一緒に撮った写真を見る。 ビールを飲みながらマスノが、すさんだ時代の中、海千山千になるしか生き残れなかったことを嘆き、「荒城の月」を歌う中、失明した磯吉が一人一人名前を呼びながら写真の顔を指さすが、少しずつずれていた。大石が「そう、そうだわ、そうだ」とほほえみながら肩を抱いて、歌を聞きながら涙がほほを伝うと、皆しんとし、早苗がマスノにしがみついて、むせび泣くのであった。 ※複数の購入を検討いただける場合、配送料が変わる可能性がございます。お気軽にお問い合わせください。
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