つい先日、人生の分岐点での選択を間違えて、奈落に堕ちていく人を見ました。あんなにハッキリと、どこが分岐点だったのかがわかった事例は、人生で初めてでした。 その人は、命こそ無事ではあるものの、再起不能になり、二度と好きなことのできない身体になりました。 私は、そうならないように注意をしたのだけれど、その人は、日頃の習慣や、堕落した思考の延長で道を選び、決して元には戻れない身体になってしまいました。 私は、自分の立場として、やるべきことはしたのだけれど、すでに「手遅れ」となってしまったその人と関わり続けると、私も火の粉を被る恐れがあったので、そこで縁を切りました。 人とは。かくも哀れな生き物。私は、その先に落とし穴があることがわかっていたから注意したのに。 「溺れる者は藁をも攫む」とは申しますが、目の前に藁を差し渡しても、・藁が救いになると気付けぬ者・藁を攫む力のない者・藁を攫むことを恐れる者 世の大半は、そうした人間たち。 彼らが、滝壺や流砂に飲み込まれていくのを眺めながら、私は世の不条理を憂うばかりです。 世の中で、自らの運命を切り拓けるのは、ごく一部の人間だけ。 多くの者たちは、避けては通れぬ大きな流れに逆らう力を持たぬ者。 そこに飲み込まれることも含めて「自然の流れ」なのか?それに抗うのは「不自然」か? 無農薬野菜を食べながら、何も知らぬ小さき者たちを山の頂きの上から眺め、彼らの「あるべき行く末」について、想いを巡らせています。 「運命を切り拓ける」というのが、特別な才能であるとするならば、私はこれを使って、力なき者たちを、どうすればいいのか? 支配すればいいのか?それとも3564にすればいいのか? 迷います。 そんな、「強者は弱者をどう支配すべきか?」について、話し合える強者を募集します。男女問いません。
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