------------------受け取り候補者の名のりがありました------------- 書店の無い津久野駅界隈は寂しいと思われませんか。 身近にあった書店が消えるのは寂しいものです。 ジモティでは無料にすると殺到されても困るので、ワンコインを設定させてもらいます。 画像よりも増える可能性もあります。 いずれにせよ早い方優先です。 (ただし日曜日以外の午後は仕事で居ないと思ってください。 学習塾の生徒を持っているので動けません。) 津久野にお住まいの方。 また津久野までお越しいただけるかたであれば、どなたでも結構です。 池波正太郎ウィキペディア 1923年(大正12年)1月25日、東京市浅草区聖天町(現在の東京都台東区浅草7丁目)に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳(1929年)まで同地で過ごす。やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学する。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。 正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。祖父・今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。 1935年(昭和10年)、西町小学校を卒業した。担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初株式現物取引店・田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店・松島商店に入った。以後、1942年(昭和17年)に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでした。 終戦まで 1941年(昭和16年)、太平洋戦争が開戦したが、その翌年には松島商店を退職し、国民勤労訓練所に入所。同年のうちに芝浦・萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、池波本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数箇月のうちにこの技術に習熟した。この頃には「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチを投稿するなどした。そのうち「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」で賞金50円を稼ぎ、これが正太郎にとってはじめての原稿収入となった。 1943年(昭和18年)の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元日には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにもついに召集令状がもたらされ、工場を退職。4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。磯子の八〇一空に転属となり、通信任務(電話交換手)を担当。翌1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲のため永住町の家が焼けた。その後、水兵長に進級し、米子の美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となった。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句や短歌を作ることに熱中した。8月15日、敗戦。二等兵曹に進級。残務処理を終えて8月24日に東京に戻る。 劇作家として 帰京直後の1945年10月に帝国劇場で六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を見物した。1946年(昭和21年)、東京都職員となり下谷区役所に勤務したが、仕事は学生アルバイトとともに各所にDDTを撒布してまわることだった。すでに空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。その後も区役所勤務をつづけながら、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。 1948年(昭和23年)には習作を手に初めて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年(昭和25年)、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、座付作者といわれるほどに新国劇と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川の強い勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表した。 小説家へ 1955年(昭和30年)1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、自ら演出をも行った。これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職(昇進を断り、外回りの職に徹しており、この当時は目黒税務事務所で税金の集金を行っていた)。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作の『風林火山』『黒雲谷』『賊将』など、新国劇で作品を次々と上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年(昭和34年)9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年(昭和33年)暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父と久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。 1960年(昭和35年)、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少の頃からの愛読者であった大佛次郎から賞を手渡された。受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号 - 64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号 - 64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号 - 12月29日号)など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で映画化された。一方で劇作家としては1963年(昭和38年)に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との軋轢が原因であった。同年6月11日、長谷川伸が没したが、同時にこれを契機として二十六日会・新鷹会などを脱会。以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。
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