こんにちは。有川翠雲です。 百人一首の和歌を色紙に散らし書きしました。 大江(おほえ)山 いく野の道の 遠(とほ)ければ まだふみもみず 天の橋立 面白い解説がありましたのでご紹介します。 作者 小式部内侍(こしきぶのないし。1000?~1025) 橘道貞(たちばなのみちさだ)の娘で、母親は和泉式部(「和 泉式部日記」で有名。百人一首56番に収載) 一条天皇の中宮彰子 (しょうし)に仕えました。 幼少時から才気を謳われ、この歌をめ ぐる定頼とのエピソードは非常に有名で、多くの説話集に収められ ています。若くして逝去しました。 ■□■ 鑑賞 ■□■ この歌については、「金葉集」に長い詞書が付けられています。 当時、小式部内侍は年少ながら非常に歌が上手いと評判でした。 しかし、あまりに上手なので、母の和泉式部が代作しているのでは ないかと噂が出るほどでした。 ある日小式部内侍は歌合(歌を詠み合う会)に招かれますが、その頃、母の和泉式部は夫とともに丹後国に赴いており不在でした。 そこで、同じ歌合に招かれていた藤原定頼が、意地悪にも「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」と尋ねました。 つまり「歌会で詠む歌はどうするんです? お母様 のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使い は帰って来ないのですか」と、代作疑惑のことを皮肉ったのです。 そこで、小式部内侍が即興で歌ったのがこの歌です。 「大江山へ行く野の道(生野の道)は遠いので、まだ行ったこと はありませんわ(手紙なんて見たこともありませんわ)。天の橋立 なんて」。 生野と行くと掛け、さらに「踏みもみず」と「文も見ず」を掛け た華麗な歌。 これを即興で詠むことで、小式部内侍は、これまでの歌が全部自分の才能の賜であり、噂はデタラメであることをずばりと証明してみせたのです。 定頼はさだめし驚いたことでしょう。 今で言うなら、部長のセクハラ発言を、ずばり自分の才知で切り返してしまった新入女子社員といったところでしょうか。 このエピソードは非常に有名になり、後の多くの物語や研究書にも引用されました。 内侍が若くして逝去したことが惜しまれます。
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